ばあちゃんの話

私の母方の祖母は、神戸三宮北野坂で「若松」という料亭を営んでいました。

須磨は父方。

三宮は母方。

今日は母方の話。

元々は曾じいちゃんが老舗の布団屋でしたが、戦後には儲からなくなっていたそうです。曾ばあちゃんが6人の子供を養うために焼き鳥屋をやっていたそうです。祖母は7歳8歳ぐらいから焼き鳥屋を手伝っており、酔客にお酌したりして可愛がられていたそうです。喜んでお客さんの膝に座って「接客」していたそうですよ。閉店後は子供ながら深夜まで洗い物をしていたとか。今では大問題になるでしょうけど、逞しい時代ですね。

そんな祖母は、早々と商才を発揮して、20歳ぐらいでトップの立場に。

女将となって三ノ宮センター街に店を構え、焼き鳥ではなく高級料亭にいきなりシフトチェンジしました。努力と勢いによって軌道に乗り、料亭は繁盛しました。たちまち料亭のまわりをベンツが取り囲んで停車するようになったといいます。

三ノ宮センター街が車両通行止めになったタイミングで、北野坂に7階建の「若松ビル」という名のビルを建てて移転しました。だれがお金を出してどうやって建てたかは歴史の謎です。阪神大震災でもびくともしない頑丈なビルでした。その頃まだ20歳代だったようで、勢いの凄さを感じます。

当時、北野坂は何もない僻地で、三ノ宮駅に行くには雑木林を迂回する必要があったそうです。何もないところにブチ建てたという感じですが、当時、料亭には「入口の前に車が停まれる」ということが重要であり、僻地だとか繁華街だとかは関係ないと考えたそうです。とはいえ、祖母はそこまでの経営判断ができるタイプではないので、料亭の人脈で色々なことがあったんでしょう。

そうして建てられた若松ビルの真北に、西村珈琲の2号店が建ちました。当時は会員制の喫茶店でした。一見さんお断りの喫茶店。西村珈琲も女将さんが仕切っている会社です。この西村珈琲2号店という店は、個人的には1号店よりも一層特別な雰囲気があると感じます。江戸川乱歩的な雰囲気といえば良いでしょうか。神戸観光の際には是非お立ち寄りいただきたい歴史ある名店です。珈琲も、フルーツジュースも絶品です。料亭と会員制の喫茶店はさぞや相性抜群だったろうと思います。

料亭は成功を収めます。料亭には政財界のボスが来るわけですが、ボスは一人では来ませんよね。何人かでぞろぞろ来るわけですが、祖母が特に気にかけて押さえていたのは「若い子」や「運転手」だったといいます。ボスなどは来た時点でファンにできるから適当にやっておけばいいと。大切なのは、本来イヤイヤ来る人たち。運転手からすれば、若松に行けば、多額のチップがもらえる。女将がわざわざ車のところまで降りて来て名前を覚えてくれていて、時間を割いて話をしてくれる。若い子もここならボスを気にせず楽しく飲ませてもらえる。若いからといって下っぱの扱いを受けない。そのようにして苦痛を感じがちな若い子や運転手にしっかりと心を通じ合わせることで他店を出し抜いていったといいます。若い子も、いつまでも若い子ではありませんからね。

(2018年に、当時の「若い子」と祖母とで最後の宴をされていました。みなさん90歳前後のご高齢ですから、全国各地から新幹線で新神戸に集まり、新神戸駅に併設されているクラウンプラザホテルの料理屋さんで楽しんだそうです。心ゆくまで宴を楽しまれ、そのまま新幹線で帰られたそうです。モンスターと呼ばれる祖母もさすがに疲れていました)

そんな若松でしたが、バブル期になると、モロに銀行による融資の押し付けのターゲットになりました。銀行のお偉いさんが、料亭の玄関で「金を借りてくれ」と土下座をしている姿をまだチビ助だった私は幾度か見ていました。ハンコを2、3箇所ついてくれたら1億円、その金でこの土地を買えばすぐに3億円に化ける。何もしなくていい。ただただ借りてくれ。絶対に儲かるから。そういった話です。祖母は料亭の女将としてはスゴかったですが、投資や経済のことなど分かるはずはありません。「しゃあないな。宴会でうち使うてや!」という感じでぽんぽんハンコをつき、バブル経済に巻き込まれていきました。

バブル崩壊後、「今この場で10億円を即座にすべて返せ」という銀行による貸し剝がしが始まりました。買った土地などはもちろん二束三文に値下がりしています。株券も、会員権も紙切れです。現在、銀行員にこういった話をすると「借りた方が悪い。何を言おうとも、結局はハンコをついているでしょ?」と言います。ですが、どうしても詐欺師の論理と同じに聞こえてしまうんですよね。「騙された方が悪い」と。土下座をしてものを頼んでおいて、「頼みを受けたあなたが悪いでしょ」と。まあいいや。次行きましょう。借金はすべて私の父が引き受けました。

祖母は店を閉め、ちょっと精神を病んで隠居していました。鬱病というものですね。

ですが、それも薬の飲み過ぎが原因なんじゃないかと、私も一緒に考えて薬を徐々に減らしてみる計画を実施しました。すると薬を減らしたら減らした分だけ鬱病は解消していきました。いろんなパターンがあると思いますが、祖母に関しては薬を絶ったらコロリと鬱病は治り、今では痔の薬くらいしか使っていないようです。もちろん一般論ではありません。薬が効くこともあるんでしょう。

鬱病が治ると、隠居しているのもバカらしくなったようで、祖母は病院の厨房で働き始めました。いわゆる「給食のおばちゃん」です。普通に電信柱に貼ってあった求人案内を見て電話したそうです。

その病院というのがまた特殊で、入院患者のすべてが反社会的組織の人間。自称交通事故の被害者などで埋め尽くされているヤバイ病院でした。医者は院長ひとり。常にアルコール中毒で手がぷるぷると震えている医者です。名は出せませんが、こんな病院が今もリアルに存在しているので注意してください笑。

ある時、高熱を出した幼児をかかえたママさんが、間違えて飛び込んできたそうですが、祖母が「こんなところ来たらアカン!」と追い返したといいます。

病院の厨房で働くのが肉体的にキツくなってきたため、70歳半ばで祖母はその病院を退職しました。飯が美味いと、入院患者や院長夫人から人気が高かったそうです。非常に惜しまれたとか。

次に介護の勉強を始め、間を空けずにヘルパーとして働き始めました。普通はヘルパーを呼ぼうかという年齢で、逆にヘルパーになるための勉強を始めるのですから、なかなかのもんでしょう?

ヘルパーを始めて何年かしてから、ケアマネージャー試験にもチャレンジしようとしました。が、さすがに無理だったそうです。介護福祉士の資格は持っているんですよ。

結局、ヘルパーとして80歳前半までは働いていました。

利用者は、ほぼ自身よりも年下の者です。まさか祖母みたいな年齢の人がヘルパーとして来るとは思っていませんから、利用者もびっくりして動き始めたそうです。唯一年上だった100歳の利用者さんとは意気投合し、尊敬できる人だからと、なぜか私も呼ばれて3人で食事したことがあります。100歳になっても、祖母の料理をすぐ横で見て、メモをとって、自分の料理に活かしていたといいます。すごい意欲と好奇心です。カメラにも興味を持たれて、株で儲かったから超高級なレンズを買ったんだと私に自慢してくれました。100歳のその方も、祖母に財産を全部譲渡してしまうんじゃないかと親族の方が懸念され、遠方に引っ越されてしまいました。

祖母は、たぶん全国でも屈指の最長老ヘルパーだったんじゃないかと思います。新聞にでもプレスリリースを送っておけば良かったなと後悔しています。

「若いくせに寝とるジジイみたら腹たってくるねん」「だから徹底的に働きまくって怖がらせたるねん」「スパルタ介護や」と言っていましたね。

アラ90となって、さすがにヘルパーは引退し、無職となりました。しかし、今でも5時に起床してマンションの上から下まで掃き掃除し、その後は家の中を掃除し、9時ごろになったら朝食を食べ、それから新聞を隅々まで読んでから昼寝をし、起きてから体操したりラジオを聞いたりして過ごして余生を楽しんでいます。かつて占い師に「ゴキブリ200匹分の生命力」と言われたこともあるモンスターばあちゃんです笑。

「スッカラカンになったけど、ええねん。天ペロの未来が楽しみやねん」

健康の秘訣は規則正しい生活と体操だそうで、オリジナルのぶらぶら体操をしながらそう言っています。デリカシーはあまりないので、私の嫁がいてもパンツ一丁で平気で活動していたりします。まあ、なかなか特殊な祖母です。

数年前に私たち家族と一緒に住もうとしたんですが、気を使うということでやはり一人暮らしを選択しました。たまに遊びにいくぐらいが祖母にとってもちょうどいいみたいです。今日は休みなので訪れています。

私自身42歳ですが、この年でまだばあちゃんが元気に生きていてばあちゃん孝行できるのが幸いです。感謝。私の大切なばあちゃんですが、その強烈な部分も含めて承継しておかないといけません。

90歳になってもかつてのお客様が各地から集まって宴を行うという関係性。すごいです・・。正直、羨ましいですね。

自分たちもそのぐらいの心意気で心をこめて接客をしていかねば! 

饅頭屋と料亭とで業種も違いますが、客商売という点は同じです。明るく、楽しく、自分たちの使命を果たして行きます!

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